4月23日三郷公民館で「三郷地区の古墳時代 お富士山古墳を中心として」と題し、
歴史文化講演会が開催されました。
(主催:三郷文化財研究会 講師:伊勢崎市教育委員会文化財保護課主査 出浦 崇先生)
同文化財研究会は戦後まもなく結成され、長年にわたり伊勢崎市内外や三郷地区を中心に古文書、郷土史を研究し三郷公民館で活動しています。
今回の講演では、群馬県に多数ある古墳から、三郷地区の主な古墳について話を聞き、古墳時代へのロマンを感じようというもの。ここでは特に記者が印象に残ったものをご紹介します。
三郷地区は殖蓮地区に次いで古墳が多くあり、中でも、お富士山古墳は大規模で特徴ある古墳です。本講演会では、『古墳研究の歩みとお富士山古墳』、『三郷地区の古墳と古墳群』、『三郷地区の古墳時代』の3点についてお話をうかがいました。
〇お富士山古墳の調査の歩みと特徴
お富士山古墳の最初の調査は江戸時代、伊勢崎藩の関重嶷(せきしげたか)が著した「発墳暦」(はっぷんれき)に記録されています。以来、明治、昭和と調査されてきました。
古墳の形は、畿内地方では多く見られる前方後円墳。作られた年代は5世紀半ば。当時、畿内地方では盛んに作られた形で、有名な仁徳天陵古墳とも同年代です。
大きさは全長125m。前方を両毛線に削り取られてはいますが、ネットの写真などで見ると古墳の形は確認できます。
お富士山古墳で特長があるのは長持形石棺。この石棺は、畿内地方の大王墓では多く見られますが関東では珍しく、お富士山古墳と太田市の天神山古墳、千葉県の2例が知られているだけです。こうしたことから、お富士山古墳に埋葬された人物は中央の大和政権と政治的なつながりのあったこの地域の首長と考えられています。昭和63年に石室の覆いを作る際、調査を行い、円筒埴輪、石製模造品なども出土したことは皆さんもご存知でしょう。
☆お富士山古墳についての情報はこちら
伊勢崎市役所サイト
http://www.city.isesaki.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=7993
次にお富士山古墳以外の波志江沼西古墳群、蟹江沼東古墳群などが紹介されました。
〇蟹江沼東古墳群(かにえぬまひがしこふんぐん)には、全部で70基ほどの古墳があり、そのほとんどが調査できました。作られた年代は6世紀前半〜7世紀後半。古い古墳の堀に新しい古墳が重なりあう様に次々とつくられていたそうです。また盗掘されていないものも多数あり、刀、勾玉、鎧、などたくさん出土したそうです
〇祝堂古墳(いわいどうこふん)は昭和56年の発掘調査当時、すでに墳丘は削られていて4分の1しか残っていませんでした。しかし、この古墳を調査すると基礎をつくる際、「掘り込み地業」という特殊な方法を用いていたことが判明。この方法は、古代の役所や寺院などの強い基礎を作る方法で三軒屋遺跡や上植木廃寺などにも用いられています。
この古墳が作られたのは7世紀後半。古墳時代の終末期にあたります。
そして、中央政権では律令制度がはじまっていた時代で、畿内の寺院などを作るのに、この技術を用いていたそうです。つまり、その基礎を作る技術をもつ集団が中央集権のあった畿内地方から古代の伊勢崎(佐位郡)にやって来て祝堂古墳を作ったと考えられ、古代の伊勢崎(佐位郡)は中央集権となんらかの形でつながっており、かなり有力な豪族の墓であったのではと推測できます。
〇利根川をはさんで西と東に2大勢力
古墳時代の群馬県(毛野の一部)では各地で古墳が作られ、それら古墳の形や出土したものから、時代の流れや中央集権とのかかわりを知ることができるそうです。
また、利根川を挟んで前橋、高崎などの西側と伊勢崎、太田などの東側では、時代の移り変わりとともに古墳の形に大きな違いが見られ、西側と東側は2大勢力があったと想像できます。
そして、祝堂古墳のように前橋にはなく伊勢崎だけにみられる古墳の特徴から、古代の伊勢崎(佐位郡)は国府のあった前橋とはちがう、独自のつながりを中央集権と持っていたと見られ、そのつながりが全国的にも有名な三軒屋遺跡や上植木廃寺につながっているのではないかと考えられるそうです。
今回の講演は三郷地区の主な古墳を紹介しましたが、古代の伊勢崎を知るうえで興味深い講演でした。講演会を主催した同研究会の会長細井さんは
「伊勢崎市にあるたくさんの古墳の一部を知ることで、皆さんにぜひ古代へのロマンを味わっていただきたいです。さらに歴史的に貴重な遺産を語部として次世代への伝えていきたい。」と語っていました。
当サイト内 「お富士山古墳」記事
取材日:2010年4月23日/アイマップfuru