伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で企画展「カイコと暮らし」(11月23日〜12月21日まで)を開催しています。今回は同館が収集した養蚕具や珍しい資料など約50点が展示されています。
カイコの歴史は大変古く、「古事記」や「日本書記」の中に記録があります。群馬県各地で桑を栽培し、養蚕が最も盛んに行われたのは明治〜昭和40年代頃。今回の展示では、実際に養蚕農家が使用した道具が多数展示されています。例えば、卵からかえった毛蚕(けご)と呼ばれる幼虫を集める作業(掃き立て)に使った羽根、桑の水分を乾かす際、使用した手動の扇風機、繭になる時期にカイコが入る藁や竹で編まれたマブシなどです。
カイコの生育には湿度や温度の管理が重要で、養蚕農家はたくさんの繭を取るため、大変苦労をしたそうです。これらの飼育は女性や子供、家族総出の作業でした。その様子を屏風に色彩豊に表した「養蚕図屏風」も初公開されています。カイコがたくさん取れるかどうかは、まるで博打のようであり、そのことから「運虫」とされ“オカイコサン”・“オカイコサマ”と呼ばれていました。養蚕の歴史は、品種改良と蚕の病気との戦いの歴史でもあったのです。
伊勢崎市境島村では養蚕の研究が盛んに行われ、明治時代(1871年)に復活した皇居での養蚕に4人の女性が選ばれ、直接飼育にかかわりました。その中の1人、栗原ふさの「養蚕日記」や恩賜の品物も展示され、当時から群馬の女性が働き者であった様子もうかがえます。そして現在でも、皇居の紅葉山御養蚕所では養蚕が行われているそうですよ。
これら貴重な養蚕具を寄贈、展示に協力した文化財調査員の中島太一さんは「私も小さい頃から養蚕を手伝いました。桑の葉を乾かしたり湿度が低いと霧を吹いたりと家族全員で作業したものです。このように実際の道具を展示し、当時の養蚕と人々の暮らしを皆さんに理解してもらい、後世に伝えたいと思っています。」と語っていました。
また同資料館では、今回の展示の関連事業として養蚕と生活のかかわりをまとめた冊子「カイコと暮らし」(約60ページ)を販売。また展示期間中、特別講座3回を実施します。3回目の12月7日(日)には「養蚕に生きる人々〜養蚕と災害にみる〜」を開催予定。養蚕に携わった年配の方から社会科を学ぶ子供たちまで郷土の歴史がわかる興味深い企画展です。ぜひご覧下さい。
◆第3回特別講座 12月7日(日) 「養蚕に生きる人々〜養蚕と災害にみる〜」
講師 吉井勇也さん (成城大学大学院博士課程)
時間 1時30分〜3時30分まで 2階研修室 受講料無料 定員30人
申込みは電話で (TEL 0270−63−0030)
◇養蚕の歴史
http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html
◇皇居での養蚕の様子
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080605/imp0806051448001-n1.htm
11月30日(日)に同館で開催された特別講座 第2回「群馬の蚕神〜石に刻まれた神々〜」では渋川市文化財調査員、日本石仏協会理事の角田尚士先生が撮影した群馬県各地に存在する蚕神(かいこがみ)の石仏写真を紹介。先生は重労働であった養蚕農家の苦労や、自然災害への信仰、生糸を取るため犠牲にしたサナギへの供養など、人々の石仏に込めた思いを解説していました。伊勢崎市には現在、赤堀町下触、波志江町に3体が確認されています。
県内各地の石仏は、養蚕農家の減少とともに忘れ去られ、中には粗雑に扱われているものもあるそうです。角田先生は「群馬県は石仏の宝庫で、蚕神様もたくさんあります。これらからも石仏を探し出し、丁寧に保存することで当時の生活の様子を後世に伝えたいと思います。」と語っていました。
【記者雑感】
記者は昭和40年代生まれですが、子供の頃、父の実家でオカイコサンが桑を食べる音を雨の音に間違えたのを覚えています。しかしこれほど詳しく養蚕具を見たこともないまま、群馬県人なら誰でも知っている『繭と生糸は日本一』を暗記していただけでした。今回、展示の説明や特別講座を聴き、かつて人々は大変苦労して生糸を取っていたことがわかりました。しかしながら、明治から昭和の高度成長期頃まで養蚕が盛んに行われ本県が日本一となったのには、養蚕は寝る間のないほどの重労働だったが、家族や隣近所、働き手による総出の作業に現代には得難い“何か”・・・。(あえて言うなら)皆で作業する喜びや作業後のお祭りに人々は、少しでも楽しさを感じでいたからではないかなと感じました。
取材日:2008年11月30日/アイマップfuru