経営者の輪Vol.101 「有限会社梶山鐡工 梶山 明久さん」伊勢崎市境下淵名
Vol.101 有限会社梶山鐡工 梶山明久さんの巻
プロフィール
梶山 明久(かじやま あきひさ)さん。昭和45年3月20日。
伊勢崎市境下淵名(旧境町)出身・在住。梶山明久さんは、市内境下淵名で自動車小物部品製造などに携わる有限会社梶山鐡工の3代目。「他人に助けられてきた」という心あたたまる体験、経営者として会社を切り盛りする難しさなどを伺いました。
肌で感じた無言の重圧
有限会社梶山鐡工となったのは、昭和63年のことですが、創業はずっと前。梶山さんが物心ついたころには、自宅前に工場を構え、おじいさまとお父様が仕事をしていた、と言います。
「今と違って機械の安全性も十分ではなかったので、工場内に入ってはいけない、と言われていました」と梶山さん。仕事風景を頻繁に目にすることはなく、工場から聞こえる機械の音を耳にしながら育ちました。高校は、もちろん将来を見据えて工業高校の機械科に進学。卒業すると、お父様の勧めですぐに家業を継がず、太田の金型製造会社に入社し、気がつくと12年の歳月が流れていました。
上司に、同業会社に助けられて
「すぐに家に戻れ。家業があるんだ。こっち(会社)のことはいい、明日から家の仕事をしろ」と。
「あのとき、上司が背中を押してくれなかったら踏み切れなかったかもしれない」当時を振り返って梶山さんは話します。人をまとめる立場に立った今、改めて上司の懐の深さを感じる、とも。上司の言葉に後押しされるように、翌日からお父様が社長を務める会社「梶山鐡工」で仕事を始めた梶山さん。幼いころから「跡取り」という見えない看板を背負ってはいるものの、梶山鐡工では全くの初心者です。どう機械を動かしてよいのかもわかりません。お父様が自ら携わっていたプレス加工機械の操作方法を教えられる人も社内にはいなかったのです。
そんなとき、手を貸してくれたのが梶山鐡工と同じように自動車部品製造をしている会社の社長。「ウチの工場長をそちら(梶山鐡工)に向かわせるから」と、自分の会社でも必要不可欠に違いない工場長をライバル会社でもある梶山鐡工に出向かせてくれたのです。約1週間、機械の操作方法や仕事運びなどを教えてもらい、納入が間に合わないときは、その会社で製造を賄ってくれました。
「変な話、ウチの会社がなくなれば、受注も増えるかもしれない。それなのに、即座に手を差し伸べてくれて。本当に有難かった」と梶山さん。
多くの人から力を借り、少しずつ仕事は軌道に乗り始めました。
QCDを大切に
会社員から一夜にして経営者側に立たされた梶山さん。会社員時代と違うのは「責任」と話します。「幸いにもウチは、社員がみんな仲良しなんです」と梶山さん。会社を大きくして工業団地に進出したい、という希望もありますが、「社員がみんな、安心して長く仕事のできる環境をつくること、社員の家族も含めてゆとりある生活ができるように中身の拡充を図ることが先かな」と話します。
息抜きは2人の子ども
会社を経営するようになってから「顔つきが鋭くなった」と友人から言われるという梶山さんですが、2人のお子さんと遊ぶときは、肩の力がふっと抜けるそうです。今年から幼稚園に行き始めたご長男は、毎日新しい言葉を覚えて帰宅。
「この間は『おめぇ』なんて言葉をつかってカミサンに叱られていましたよ。そのやりとりを聞いているだけでもおかしくって」と笑う梶山さん。楽しく賑やかなご家庭での様子が目に浮かぶようです。
今こそフロンティアスピリッツを発揮せよ!
あのお店・会社のあの人を連載で御紹介します。
アイマップでは連載企画として、「応援します商売人!今こそフロンティアスピリッツを発揮せよ」と称し地域の企業人・オーナーさん達をご紹介していきます。 また次の方は、ご紹介を頂くという経営者の輪方式をとらせて頂きます(笑) この企画を通じて、少しでも地域の皆さんに地元のお店や企業、そしてそこで働く人達を知って頂ければ と思っています。またそれが僅かでも売上増やビジネスチャンスに繋がれば幸です。
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