今回、お話を伺うのはK代行の代表・小林伸之さん。「父は県庁職員、母は教員、姉は前女高卒業後、京都の大学に進学して医師に嫁いだという『お堅い』家庭で、自分だけですよ、こんなに好き勝手なことをしているのは」と笑う小林さん。全国ランキング32位を記録した卓球との出合いから独立まで、コロナのピンチを救った事前の対策について伺いました。
小林 伸之(こばやし・のぶゆき)さん 伊勢崎市出身 伊勢崎市在住
小学校時代の小林さんの夢は、教師。「小学校5〜6年生の時の担任の影響が大きかった」と話します。常に子供の目線、同等に付き合ってくれ、子どもの言い分を「そうかそうか」と一度受け止めてくれ、その後もっと良くするためにとアドバイスをくださったそうです。 小さい頃から運動神経抜群だった小林さんは小学校時代、さまざまな習い事をしていました。少年野球、ミニバスケット、剣道、空手、スイミング、そしてピアノ。さらにお母さまが卓球の国体選手だった関係で卓球も! 「週に一日しかフリーの時間はなかったけれど、嫌だとは思いませんでした」と振り返ります。 こうして迎えた中学入学。小林さんは、困ってしまいました。当時、部活は限られており、バスケットも剣道も空手もなかったからです。残された選択肢は卓球。しかし、このときの恩師との出会いがまた、その後の小林さんに大きく影響を与えたのです。 「厳しい先生だった」と小林さん。今では考えられませんが、厳しさを拳で表すタイプで、小林さんも「拳を振り上げられた分だけ強くなれる」と思っていたそうです。そして「中学時代にそういう経験したから、苦労をしてもへこたれない、苦労を乗り越えられる精神力が身につきました」と話します。 常に全国を目指すほどの強豪校で、市の大会では敵なし。数えきれないほど戦いを経験しましたが、思い出に残っているのは「市の大会」というから意外です。その試合の対戦相手は、本気で戦えば1点も与えることなく勝てる中学。当時、部長を務めていた小林さんは、それでは相手が恥をかくのではないかと、相手が得点できるよう、ほんの少し手を抜いたのです。 試合終了後、待っていたのは顧問の雷でした。「今の試合は相手に失礼。敬意を持って全力で試合に向かえ。こういう事は癖になる、いつか甘えが出る」とそれは厳しく叱られたそうです。 ところが、その時、小林さんはなぜ自分が怒られたのかわからずに、ぽかんとしてその言葉を聞いていました。意味が分かったのは、自宅に戻っていつものように試合後の反省ノートを書いていた時。自分なりの解釈をノートに書くと、「その理解でよい」と言われました。のちの小林さんにも大きな影響を与える忘れられない経験となりました。
進学先を考える時期になると、県内外から有力な選手を集めていた高校から誘いの声がかかります。ところが小林さんは、トップの座に君臨する高校からの誘いを断り、あえて挑戦者の立場である伊勢崎商業高校への進学を希望しました。 高校時代は、卓球漬けの毎日。ご自宅でお母様が卓球センターを開いていましたが、身内だと甘えが出ると、あえて遠くのセンターを選んで部活終了後はさらに練習を重ねたそうです。その結果、インターハイ、国体、全日本と言う全国レベルの大会に出場を果たしました。 高校3年生になると、都内の有名大学から誘いの声がいくつもありましたが、やり尽くした感があった小林さんはそれを断り、キャンパスライフを楽しみたいと卓球から離れる決意。高崎商科大学に進学します。 ここで、小林さんが夢中になったのは「車」。一晩中、車を走らせるので、ガソリンは一日で空っぽ。ガソリン代が1リットル82円位の時代、使用量は月20万円以上だったといいますから、いかに走りまくっていたかが想像できますね。 卒業後は、車好きが高じて運送会社に入社。大型の免許も取得し「日本国内いろいろなところへ仕事で出かけ、その土地の名所や名物料理を味わうのが楽しかった」と楽しそうに語ります。 しかし、そんなとき、卓球の神様は再び小林さんを卓球の道に誘うのです。卓球に力を入れていた鶴ケ谷病院に入職。今度は、仕事+卓球という今まで以上のハードな毎日が続きます。仕事が終わると夜中まで「週7」練習、つまり休みはゼロ。思い出に残るのは、全国優勝経験者に勝った試合です。が、驚きなのがその後です。その日、誕生日だった小林さんは、試合が終わるとすぐに伊勢崎へ。その足で婚姻届けを出し、翌日また東京の試合会場へ向かったというのです。 「でも、全国優勝経験者に勝ったことで全国ランキングは32位に上がりました」とニッコリ。「オリンピック選手や国際大会で活躍する選手とも戦ったことは良い思い出」と話します。
33歳になった小林さんは、新たなチャレンジを始めます。それが、好きな車に携われる代行のアルバイトです。本業が終わってそのまま代行のアルバイトへ向かって朝まで。その後、寝ずに本業へ。一日休んでまた本業〜アルバイト〜本業、そんな日が7年も続いたそうです。 さすがにこのハードすぎるダブルワークがきつい、と思い始めたのは39歳のころ。このころになると、小林さんはアルバイトの代行を本業にできないかと思い始めます。1年間、収支のシミュレーションをきっちり行い、40歳で独立を果たしました。良いときだけでなく、最悪の事態を考えた「きっちりとしたシミュレーション」が、K代行の存続を助ける鍵となるのです。 車3台からのK代行をスタート。7年間、代行のアルバイトをしていたため、贔屓にしてくださるお客さまはたくさんいましたが「声をかけるのは引き抜きになる」と独立のことは一切口にしなかったと言う男気あふれる小林さん。 しかし、今までのつながりを一切頼らず、どうやって仕事のきっかけを作ったのでしょう? 「営業をしました」と小林さん。最初の1ヵ月は、飲み歩行ってお金を使い「よろしければ」と名刺を渡す。「いいとこどり」をしない地道な営業と、元来の顔の広さで自然とお客さまが増えていきました。 赤字でシミュレートしていた開業時ですが、良い方に外れて黒字からのスタート。その後も右肩上がりの業績が続き、車両は13台に、スタッフは17人までになりました。 「1番のピンチはやはりこのコロナ」と小林さん。お酒を提供するお店が休業を余儀なくされ、小林さんの仕事も大きな打撃を受けました。「そんなときでも、スタッフに辞めてもらうということは一切考えなかった」といいます。「辞めてもらうことになると、困ることになるのはスタッフだけではないんです」ときっぱり。「いずれ、コロナが収まり日常生活が元のように戻った時になって人を集めようと思っても難しい。持ちつ持たれつ、なんですよ」。 コロナの厳しい状況の中で生きたのが、開業前、1年かけてじっくり取り組んだシミュレーションです。「最悪の事態を考えていたことで、乗り切ることができそう」とホッとした表情で話します。 この仕事のやりがいは「ひとつは、頑張り次第で、お客さまに喜んでいただき、会社が伸びていくこと。もうひとつはさまざまな会社や社会情勢を知ることができること」と小林さん。会社の社長や、異業種の人との関わりも多く、自分が足を踏み入れていない業界のことやベテラン経営者から直接聞く話はとても勉強になります。逆に、若い人から聞くイマドキの情報や考えもまた貴重。両輪のバランスが小林さんが進む道を支えます。 黒字スタート、右肩上がりの成長を続けてきた小林さんですが「起業は思ったほど簡単ではなく、毎日がきつかった」とぽつり。それでも「続けてこられたのは、お客さまとスタッフがいたから」と声を弾ませます。お金の管理が苦手なスタッフは、給料の一部を小林さんが預かり、暮らしに欠かせない電気・ガス・水道・携帯代などはそこから小林さんが支払うのだとか。「少しずつできるようになって、いずれは自分でやっていく力を身につけていってほしい」と優しい父のような目線で話します。 小学生のときの夢とは違う道を歩んでいる小林さんですが、小中学校時代の二人の恩師から受けた影響は、社長という立場でスタッフたちに伝えられています。 当面の目標はまずこのコロナを乗り越えること。そして「今後の夢は、代行を軸とした事業を展開すること」と爽やかに語ってくださいました。
K代行 ◆住所/伊勢崎連取町1810‐1 ◆TEL/080-8178-3737 ◆創業/2018年 ◆営業時間/19:00〜翌6:00 ◆休日/大晦日、正月 ◆業務内容/運転代行業 取材日 2021年10月 K代行 はこちら
あのお店・会社のあの人を連載で御紹介します。
今こそフロンティアスピリッツを発揮せよ!
アイマップでは連載企画として、「応援します商売人!今こそフロンティアスピリッツを発揮せよ」と称し地域の企業人・オーナーさん達をご紹介していきます。 また次の方は、ご紹介を頂くという経営者の輪方式をとらせて頂きます(笑) この企画を通じて、少しでも地域の皆さんに地元のお店や企業、そしてそこで働く人達を知って頂ければ と思っています。またそれが僅かでも売上増やビジネスチャンスに繋がれば幸です。
※ご注意:本記事は上記の日付をもとに作成しています。実際にお店等に行く方におかれましては、事前に電話等で確認してからお出かけ下さい。記事と情報が異なる場合、imapは一切責任を負いませんのでご了承下さい。(記事と情報が異なる場合もありますので ご了承下さい。)