今回のいせさきふらっと観光は、堀口町の「名和小学校」と「名和幼稚園」近くにある『那波城』にまつわるスポットをご紹介したいと思います♪ 伊勢崎市の南部、堀口町の日光例幣使道からもほど近い場所に位置する名和小学校。 その校庭の東側に県道18号に面してひとつの石碑が建てられています。 その石碑には『那波城址碑』と刻まれ、右側には平成17年3月に例幣使道まちづくり会議により設置された説明板があります。
那波城址碑 昭和9年(1934)11月7日、当時の名和村長清水周次郎が中心になって、那波城址を永遠に記念するために建てられました。 表面の文字は、徳富蘇峰(評論家・歴史家)、撰文は、東京帝国大学(現在の東京大学)の文学博士、中村孝也、執筆は、豊道慶中です。裏面の碑文には、大江姓那波氏が、鎌倉時代から戦国時代まで活躍した歴史が刻まれています。 なお、本丸はこの碑よりも東に所在したといわれています。 平成17年3月 例幣使道まちづくり会議 説明板にはこのように記されていますが、この説明板と石碑の表側は校庭の外側から見ることができるものの、石碑が建てられているのは小学校の校庭内となっていて、一般の方は通常、「裏面に刻まれた碑文」は見ることができません…。 そして、もう1つ注目していただきたいのが「なお、本丸はこの碑よりも東に所在したといわれています。」の最後の2行。 その文章のとおり、『那波城址碑』とは別に、東に約300m・徒歩約5分の名和幼稚園の南・第二中学校の西の農地に石碑だけがポンッと建てられており、その石碑には『那波城址 本丸跡』と刻まれ、そのあたりに本丸があったことの目印となっています。
那波城は、天文年間(1532〜1555)に那波宗俊氏により築城された那波氏の居城で、永禄3(1560)年に上杉謙信により陥落、北条高広が城主となった後、徳川家康の家臣の松平家乗が城主となったものの、慶長6(1601)年、家乗の転封により那波城は廃城となったといわれています。 現在では那波城の遺構は残っておらず、その記憶を刻むのはこの2つの石碑のみとなっていますが、周辺の地域に比べ、この辺りの道が端正に整っている様子から、お城があった雰囲気は現在も残っているように感じます。 その名が歴史ドラマに登場する機会もなく、石碑のみの地味〜なスポットではありますが(笑)、那波氏は戦国時代に東上州地域で勢力を持ち、伊勢崎市指定史跡となっている今村城も築城しているのだそう。 そんな那波氏のお城がこの地にあった風景をイメージして、伊勢崎の歴史のひと時を感じてみてはいかがでしょうか(^^) 『那波城址』 伊勢崎市堀口町(名和小学校・名和幼稚園付近) 取材:2023年2月 Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究員
Co-ラボisesakiでは、“「アナタの楽しい」を「ミンナの楽しい」に!”をキーワードに、様々な思い(研究)を、同じ思いを持った皆さん(研究員)と共に、共有すること(研究室)で形にしていくお手伝いをしています。 その中のひとつ、「Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究室」では、伊勢崎のまちの魅力を研究し、より多くの方に訪れていただけるよう発信しています。 ※ご注意:本記事は上記の日付をもとに作成しています。実際の内容等について取材後に変更されている場合もありますので、お出かけ前に最新情報をご確認いただくことをおすすめします。また、記事と情報が異なる場合、imapは一切責任を負いませんのでご了承下さい。(記事と情報が異なる場合もありますので ご了承下さい。)
『いせさきふらっと観光』 from Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究室