今回のいせさきふらっと観光は『いせさきからふらっと観光』として伊勢崎のお隣・深谷市へ…といっても、地元の方は県境を意識することなく日常的に行き来しているエリアと思いますが(笑)、新一万円札の肖像となり、現在放送中の大河ドラマのモデルともなっている「日本資本主義の父・渋沢栄一」生家の旧渋沢邸『中の家(なかんち)』、渋沢栄一が論語を習いに通った従兄の尾高惇忠の家『尾高惇忠生家』、そして、渋沢栄一について深く知ることができる『渋沢栄一記念館』をご紹介したいと思います。 今回おでかけしたのは「論語の道」と呼ばれる渋沢栄一が従兄の尾高惇忠の家に論語を習いに通った1.3キロの道にありますが、この「論語の道」を含めた近隣の渋沢栄一関連史跡が集まるエリアは「論語の里」と呼ばれています。
切妻造の養蚕農家の伝統的な建築様式の主屋は近代日本経済の父・渋沢栄一の生地にあり、渋沢一族の家の位置関係から『中の家(なかんち)』と呼ばれ、元の家から養蚕拡大の為に明治20年頃に建て直されていましたが、明治25年に火災で焼失、その後明治28年に現在の主屋として再建されました。
こちらでは庭から家屋と土蔵の外観を見学できますが、大きな話題となっているのが80歳頃の和装姿を再現した渋沢栄一アンドロイド! このアンドロイドは深谷市出身のドトールコーヒー名誉会長の鳥羽氏の発案と寄付を基に製作が実現されましたが、言葉は話さないものの、自宅でのんびりくつろいでいるかのようなゆったりとした動きで、よ〜く見ると瞬きすることも!? 正門脇の副屋(お店)前にある楷の木(カイノキ)は「孔子の木」とも呼ばれる木で(こちらに植えられているのは孔子の墓所の孫木にあたるそう)、楷書の言葉の由来にもなっており「学問の木」としても知られています。
『中の家』から『尾高惇忠生家』までは、駐車場を出たら道なりに約1.3km行くだけ…と、とてもわかりやすいですが、この道こそが渋沢栄一が尾高惇忠に論語を習いに通った「論語の道」。
『尾高惇忠生家』では、惇忠の妹であり栄一の妻となった“ちよ”、惇忠の娘で富岡製糸場の第1号工女(日本初の女工)として知られる“ゆう”なども育っています。 こちらでは土間を通路に資料や建物内の見学が可能で、見どころのひとつとなっているのが家屋裏にある煉瓦造土蔵。 深谷と煉瓦の結びつきは有名ですが、こちらの土蔵は明治21年に栄一らによって設立された日本初の機械式煉瓦工場「日本煉瓦製造株式会社」の煉瓦が使われています。
渋沢栄一に関する資料(資料室見学は事前予約制)や映像の視聴、肉声が聞けるコーナーや渋沢栄一アンドロイドの第1号による講義(事前予約制)が受けられる講義室などがあり、ここを訪れれば、渋沢栄一が近代日本経済の父と呼ばれるその功績への理解がより深まることでしょう。
『中の家』と『尾高惇忠生家』の間にあり、古代ローマの神殿を彷彿とさせる柱とシンメトリーな外観が特徴的な大きな建物で、建物の北側には立ち姿の渋沢栄一の銅像が設置されていますが、高さはなんと5m、その銅像は論語を手にして赤城山を望んでいます。 建物内の資料室では多岐に渡る資料が展示されており、時間に余裕を持って見学することがおすすめですが、『中の家』『尾高惇忠生家』も共に、これほどの貴重な施設や資料を無料で見学させていただけるのは本当に素晴らしいことと感じました♪ 伊勢崎では地元の田島弥平について学ぶ機会の方が多いかもしれませんが、日本初の蚕種関連会社である「島村勧業会社」の設立には渋沢栄一のアドバイスがあったり、渋沢栄一からの依頼で宮中の御養蚕に関わったり、伊勢崎の絹産業の発展には渋沢栄一が寄り添っていたことを思うと、近代日本経済の父もより身近な存在に感じることができるかもしれませんね(^^) 訪れる先々で若い方の姿が多く見られ、大河ドラマの影響のすごさを感じましたが、ドラマや新一万円札を通じて渋沢栄一に興味を持って深谷を訪れた方が「論語の里」から県境を越えて、境島村の『田島弥平旧宅』にも足を運んでくれたら…そこから伊勢崎にも興味を持って色々な場所を巡ってもらえるようになったら…嬉しいですね♪ 『論語の道』 深谷市血洗島〜深谷市下手計 取材:2021年5月 Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究員