伊勢崎市馬見塚町、例幣使道沿いに『三ツ橋伝説』と呼ばれる「子どもがハシカになった時、橋の下をくぐると早く治る」という言い伝えが残されているスポットがあります。 伊勢崎市立第四中学校前から東に約350m、茶色の祠に守られた庚申塔がその場所ですが、ちょうど道路がカーブになっている場所にあるので、よく気にかけていないと見逃してしまうかもしれません。 『三ツ橋伝説』の地には、例幣使道まちづくり会議により伝説について記された看板が設置されています。 建仁2年(1202)の春、世良田長楽寺を開山した、栄朝禅師が牛に乗って「三ツ橋」に通りかかると、橋のほとりで貧しい身なりの夫婦が、二人の幼い子どもを抱えて途方に暮れていました。 禅師は「いかがした」と問うと、夫婦は「はい、子どもが急な病気で熱が高く困っております。お坊様、薬でもありましたらお恵みください。」禅師は牛から降りて二人の顔をのぞき「これはハシカじゃ」と言って、経文を唱えました。すると、みるみる熱が下がりました。 子どもがハシカになったとき、橋の下をくぐると早く治るという俗信は、この三ツ橋伝説がもとになっています。
はしかという病気は、平安時代には既に文献に残されていたほど古くからある伝染病で、昨年もはしかの流行の傾向がみられたことで、ワクチン接種やはしかの免疫について報じられたことを記憶している方もいらっしゃると思いますが、鎌倉時代の1202年頃はもちろん、はしかを予防するワクチンもなく、歴史を重ねた江戸の時代となっても「疱瘡(天然痘)は見目定め、麻疹(はしか)は命定め」と言われるほど恐れられる病で、全国各地に“はしかに罹りませんように、罹っても早く治りますように”という「はしか除け」の民間信仰が残されているそうです。 さて、この『三ツ橋伝説』ですが、更にもうひとつ、この庚申塔のある場所から例幣使道を東方向に120mほど行った群馬銀行豊受支店の向かいに伝説が残されている場所があるのです。 ブロック塀で囲まれた小さなスペースの左寄りに3つの石碑があり、その中の『三橋牛打の松と芭蕉句碑』と記された石碑に、その“もうひとつの伝説”が刻まれています。
上野國那波郡馬見塚郷入口例幣使街道筋に三橋あり この里に用水三筋ならびて流れ ここに石橋架かるが故に三橋という 建仁二年壬戌春三月(一二〇二年)栄朝禅師という高僧 第八十三代土御門天皇の勅を賜り関東下向の時 この橋を渡ったその折 橋下にて麻疹に悩める旅人のため 小松をかざして祈祷護符を与え かたわらの畑にその松を挿し 牛車にて立ち去った 旅人の病癒え また不思議にも此の松自然に根付き 枝葉栄えたという 後世 この松の威容に感動せし当村の俳人劍二翁が俳聖 芭蕉の句を石に刻し 更にこの松に向いて庵を結ぶ これ向松庵なり この古蹟も時代の変遷により松も五代を数え 例幣使街道の改修が実施されたので町内有志相図りて古蹟保存のための工事を施工した
先ほどの『三ツ橋伝説』の場所と距離はありますが、この辺りには3つの水路があり、そこに架かっていた石橋が伝説の橋となるわけですが、栄朝禅師がはしかの子どもに経文を唱えた時にかざした松の枝を畑に挿して立ち去った後、その松はしっかり根付いて立派に育ち、年月が経ち、その松の姿に感動した俳人・劍二翁が芭蕉の句の石碑と、松に向かう小屋を構えた…というのが“もうひとつの伝説”であり、これら2つが重なり合うことで『三ツ橋伝説』となるのです。 現在、『三橋牛打の松と芭蕉句碑』の地の松の木は切り株が残るのみとなり、はしかが早く治るようにとくぐる石橋の名残りも全く感じられませんが、『三ツ橋伝説』について知ることで、長い歴史の中で多くの人が病に苦しみ、克服する術を模索してきたこと、日々の健康づくり・疾病予防の大切さについて考えるきっかけにしていただけると嬉しいです。 『三ツ橋伝説』 伊勢崎市馬見塚町 取材:2020年5月 Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究員
Co-ラボisesakiでは、“「アナタの楽しい」を「ミンナの楽しい」に!”をキーワードに、様々な思い(研究)を、同じ思いを持った皆さん(研究員)と共に、共有すること(研究室)で形にしていくお手伝いをしています。 その中のひとつ、「Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究室」では、伊勢崎のまちの魅力を研究し、より多くの方に訪れていただけるよう発信しています。 ※ご注意:本記事は上記の日付をもとに作成しています。実際の内容等について取材後に変更されている場合もありますので、お出かけ前に最新情報をご確認いただくことをおすすめします。また、記事と情報が異なる場合、imapは一切責任を負いませんのでご了承下さい。(記事と情報が異なる場合もありますので ご了承下さい。)
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