皆さんは「鎌倉権五郎景政(景正)公」という人物をご存知でしょうか? 鎌倉郡を領していた垣武平氏の一族の「平景政」、権五郎とは通称で、16歳にして従軍した源義家の「後三年の役」の金沢柵(横手市)の戦いにおいて、 『敵兵から目に矢を受け、その矢は首を射抜いて兜の鉢付の板に達するほどにも関わらず、その矢を折り、返す矢で敵を射取る。 という伝説を持つ「鎌倉武士の鑑」とされる人物です。 前置きが長くなりましたが、今回ご紹介するのは、その鎌倉権五郎景政を祀った神社『五郎神社』です♪ 『五郎神社』は、両毛線の高架がすぐ裏手を通る太田町の住宅地の中、太田町住民センターの隣にあり、いせさきしコミュニティバス・伊勢崎駅南巡回バスの「法務局職安前」バス停から徒歩3分、伊勢崎駅から徒歩でも15分ほどの場所に位置しています。
本陣まで戻った景政は、傷を負ったと兜を脱ぎ倒れてしまうが、その顔を靴で押さえ、矢を抜こうとする同郷の武者に刀を抜き、「弓箭を受けて死ぬのは武者として本望。だが、生きながら顔を足で踏まれることは許しがたい。お前を仇として殺し、自分もここで死ぬ」と言い、その言葉に舌を巻いた同郷の武者は、景政に膝をかがませて顔を押さえ、矢を抜いた。』
石造りの鳥居はとても低く、背の高い人では頭を屈めないとぶつけてしまいそうな感じですが、境内は手入れが行き届き、大切にされているのがとてもよく伝わってきます。 鳥居の左手には五郎神社の御祭神が書かれた案内板が設置されており、「広瀬川が昔利根川の本流だった頃、上流から一本の朱塗りの矢が流れてきた。村人が拾って家に持ち帰ったところ、その夜夢枕に、風おれ烏帽子の狩衣の、片目の武士が立って、自分は鎌倉権五郎である。お前の拾った矢は自分の仮の姿である。その矢を大切に祭るようにと言うと片目の武士は姿を消した。」と、鎌倉権五郎を祀ったことについての所以も記されています。
調べてみると、鎌倉権五郎についての伝説や、権五郎を祀った神社は東日本を中心に各所に残されていて、伊勢崎にも何か所か言い伝えのある場所があるようですが、全国的にみても、残されている伝説の多くが「権五郎が目を洗った池の生き物が片目になってしまった」というもので、それに対して、権五郎を祀った神社には「目の病気に御利益がある」といわれる場所が多いようです。 案内板には書かれていませんが、もしかすると、こちらの五郎神社でも、目の病気について御利益があるかもしれませんね☆ 五郎神社を離れ、右手に向かうと、お隣の太田町住民センタ―との間に「正心学校趾」という石碑が建てられています。 こちらは第二次世界大戦の伊勢崎空襲で五郎神社社殿とともに焼失した正心学校旧校舎(明治10年開校)があった場所で、五郎神社の社殿も平成7年の被災50年を迎えるまで、仮社殿のままだったのだとか。
地元の方に大切にされていることがよく伝わってくる神社でしたが、鎌倉権五郎の伝説から先人供養の大切さ、こうしたいきさつから感謝や信仰の大切さを知っているからこそなのでしょう。 ちょっとだけ案内板に書かれた鎌倉権五郎の伝説の続きが気になりますが(笑)、伊勢崎にもこうした伝説が残されている場所があると知っただけでも、難しそうな歴史も少しばかり、身近なものになりそうですね♪
『五郎神社』 伊勢崎市太田町 (太田町住民センタ―隣) 『いきさき、いせさき』バックナンバー・最新記事は随時追加となりますので、これからも引き続きご贔屓のほど、よろしくお願いいたします! 取材:2018年3月 Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究員
Co-ラボisesakiでは、“「アナタの楽しい」を「ミンナの楽しい」に!”をキーワードに、様々な思い(研究)を、同じ思いを持った皆さん(研究員)と共に、共有すること(研究室)で形にしていくお手伝いをしています。 その中のひとつ、「Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究室」では、普段あまり気に留めないようなニッチなポイントからも伊勢崎のまちの魅力を研究し、『いきさき、いせさき』として発信しています。 ※ご注意:本記事は上記の日付をもとに作成しています。実際の内容等について取材後に変更されている場合もありますので、お出かけ前に最新情報をご確認いただくことをおすすめします。また、記事と情報が異なる場合、imapは一切責任を負いませんのでご了承下さい。(記事と情報が異なる場合もありますので ご了承下さい。)
伊勢崎まちなか探訪研究室『いきさき、いせさき』