今回のいせさきふらっと観光は、戸谷塚町にあり、この時期だからこそ訪れておきたいスポット『夜泣き地蔵』をご紹介したいと思います。 こちらの『夜泣き地蔵』は、この地区の県道142号線と重なる“例幣使道”から近くにあり、現在の利根川との間に位置しています。 “泣き癖のある赤ちゃんには、夜泣き地蔵の赤いおかけを借りてつけると泣き癖が直る”という言い伝えのある『夜泣き地蔵』ですが、その言い伝えには、天明の浅間山噴火の記憶がありました。
江戸時代のこの辺りの利根川の流れは、現在の柴町あたりからL字のように分かれ、名和工業団地の辺りを通って流れていた七分川と、現在の流れに近い三分川と二手に分かれていましたが、その流れを変え、現在の地形と近くなる大きなきっかけとなったのが、天明3年(1783年)5月から8月にかけての浅間山の噴火、その中でも8月5日に噴出された火砕流や土石流の流下でした。 嬬恋村の鎌原観音堂で15段の階段が生死を分けたあの浅間山の噴火…というとピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、鎌原村のほとんどを飲み込んだ大量の火砕流や土石流は吾妻川に流れ込んで川を堰き止め、大洪水を引き起こし、その下流で合流する利根川沿いの地域にも大きな被害を及ぼしました。 七分川の分岐点も上流からの土石流などによって堰き止められ、戸谷塚のあたりには、たくさんの流出物と共に、1,400名とも1,500名ともいわれているこの噴火で亡くなった方のうちのおよそ半数…700体ものご遺体が流れ着いたのです。 当時30名弱といわれるこの地区の住民たちがみんなで協力し合い、打ち上げられたご遺体を現在の名和公園近くに埋葬しましたが、夜な夜な成仏できない死者の泣き声やうめき声が聞こえ、なんとか供養してあげたいと、翌年の天明4年、住民たちでお金を出し合って石地蔵を建立し、犠牲者の霊を弔うことにしました。
その後泣き声が聞こえることはなくなりましたが、耕地整理により大正6年に石地蔵を現在の場所に移転してからも住民たちは弔いの気持ちを忘れることはなく、昭和37年(1962年)の180回忌に鎌原の方たちが供養祭に訪れたことを機に、現在も交流と供養を続け、天明の浅間山噴火の記憶を語り継いでいるのだそうです。 天災は忘れたころにやってくる…といいますが、こうした災害の伝承により「忘れないこと」も、防災にとっては大切なことなのではないでしょうか?
180回忌を記念して建立された供養碑の最後には、こんな言葉が記されています。 『如何なる時代にも人は孤立して生きることはできない。見えざる人と人との相互扶助によって生きているのであるが、こと非常に際して、はじめて明らかとなる知恵のある者は知恵を、財ある者は財を、力ある者は力を捧げてこそ、この世の楽土は築かれてゆくのである。戸谷塚の地に建てられたこの碑は、この不変の真理を永遠に教える指標となるのであろうことを信ずる』 この記事を目にして、災害の備えや対策の大切さについて再確認するきっかけになりましたら幸いです。 最後にこの場をお借りして、この記事を執筆するにあたり取材にご協力下さいました飯島様に、心より感謝申し上げます。 『夜泣き地蔵』 伊勢崎市戸谷塚町409 取材:2017年6月 Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究員
Co-ラボisesakiでは、“「アナタの楽しい」を「ミンナの楽しい」に!”をキーワードに、様々な思い(研究)を、同じ思いを持った皆さん(研究員)と共に、共有すること(研究室)で形にしていくお手伝いをしています。 その中のひとつ、「Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究室」では、伊勢崎のまちの魅力を研究し、より多くの方に訪れていただけるよう発信しています。 ※ご注意:本記事は上記の日付をもとに作成しています。実際の内容等について取材後に変更されている場合もありますので、お出かけ前に最新情報をご確認いただくことをおすすめします。また、記事と情報が異なる場合、imapは一切責任を負いませんのでご了承下さい。(記事と情報が異なる場合もありますので ご了承下さい。)
『いせさきふらっと観光』 from Co-ラボisesaki・伊勢崎まちなか探訪研究室